第1章 死因を減らせ

唸りと笛

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唸りが木々の隙間を縫ってきた。

低い。腹の底に沈み込むような音だ。一度ではない。二度、三度と重なって、闇の奥から波のように押し寄せてくる。俺は走りながら唾を飲み込んだ。喉が乾いている。走る前から乾いていたわけじゃない。この森に入った瞬間から、空気が甘く濁っていて、それが妙に喉を渇かせるんだ。

外郭採取の森。ウォルミッシュ砦の北門を出て半刻。星堕ちの地の外縁に広がる、採取者たちの生活圏であり、墓場でもある場所。星屑の付いた薬草や鉱石が採れて、それなりの金になる。なるけれど、それなりの頻度で人が死ぬ。ギルドの掲示板に貼り出される行方不明者と死亡者の名簿は、毎月のように新しい墨で書き足される。

俺は十五歳。採取ギルドに登録したばかりの外回り見習いだ。今日の仕事は凪苔集め。汚染地域で活動するには必須の素材で、採取者が肌に貼ることで侵食を和らげる。地味だが需要のある仕事。文字と算術が読めるから、帳簿の照合や地図の写しも頼まれる。母が商家の出だったから、小さい頃から読み書きを仕込まれた。そのおかげで、他の見習いより少しだけいい待遇で森に入れてもらえている。少しだけ、な。

「アイン、左!」

ロイクの声だ。振り向くと、小柄で浅黒い肌の男が木の根を跳び越えながら俺を追い越していく。左眉に古い傷。声が大きくて、笑い方が妙に印象に残る。同期の中でも一番逃げ足が速い。それが褒め言葉だと本人は言い張る。「生きて砦に帰れば勝ちさ」が口癖の、実利主義の塊みたいなやつだ。

俺は言われた通り左に逸れた。直後、さっきまで俺がいた場所を唸りが薙いでいく。大きな影。四足。毛皮が逆立って、目が鈍く光っている。群れ夜行獣。元は狼だったものが、星堕ちの地の侵食で夜行化し、大型化した。単体でも危険だが、こいつらは必ず群れで動く。一匹見えたら十匹いると思え。採取者研修で耳にタコができるほど言われる。

「カイルは!?」

俺は走りながら後ろを見た。首を捻って、視界の端に森の闇を捉える。

カイルがいた。短い赤茶の髪。薄いそばかす。笑うとえくぼが出る人懐こい顔立ち。まだ新しい採取着を着崩して、装備の手入れより仲間と笑い合うことを優先する、そういうやつだ。同じ十五歳で、同じ日にギルドの扉をくぐった同期。俺とロイクとカイルの三人で、今日は凪苔を探していた。

でも今、カイルは笑っていない。立ち止まっている。手に何か光るものを持っている。星屑付きの鉱石。売れば金になる。だが、こんかいの奴はそれを持ったまま、森の奥を見ている。唸りの方向を見ている。

「カイル!」

ロイクが叫ぶ。声が割れている。俺も叫ぼうとした。でも喉が張り付いて、空気だけが漏れた。

笛が鳴った。

最初は短く。次は長く。三度目で、森のあちこちから足音が湧く。退避の笛だ。獲物を捨てて走れ、という合図。採取ギルドの掟。森に入る前に何度も言われる。ユーグ支部長の金儲け主義の説明よりも、ティルダさんが名簿を読む声よりも、この笛の意味だけは体に叩き込まれる。

「カイル、捨てろ!」

俺の声は木々に吸われる。カイルは動かない。いや、動いた。ゆっくりと、鉱石を荷袋にしまった。捨てない。なんでだ。あれは重い。走るには重い。奴は何を見ている。何を考えている。

唸りが近い。群れが迫っている。十匹の牙が、闇の中で並んでいる。

俺は走りながら、自分の左胸を押さえた。服の下に母の形見のペンダントがある。冷たい金属の感触。無意識に指先で確かめる癖だ。でも今は走れ。確かめるのは後だ。生きて帰ってからだ。

「アイン、行くぞ!」

ロイクが俺の腕を掴んだ。その手のひらは汗で滑る。俺は振りほどいて、もう一度後ろを見た。

カイルが走り出している。よかった。遅いけど、走っている。鉱石を入れた荷袋が揺れて、走りにくそうだ。でも走っている。あと少し。あの倒木を越えれば、退避経路の合流点だ。そこから先は笛の音が届く範囲。見張りがいる。助かる。

カイルの足が、止まった。

なぜ。

俺の脳裏に、嫌な記憶が浮かぶ。出発前、カイルが言っていた。「星屑付きの鉱石、一個で凪苔十日分の稼ぎになるんだぜ」。俺は「危ないから深追いするな」と返した。カイルは笑って「わかってるって」と言った。あの笑顔。えくぼが出る、人懐こい顔。でも目は、もっと奥を見ていた。

カイルは記録するやつだった。俺が帳簿や地図を読むのに対して、奴は自分の足で見たものを覚えるタイプだった。どこに何があったか。どの岩が動いたか。どの木が枯れたか。そういうのを、胸の内に刻んでいた。だから今日も、さっきの場所に光るものを見つけたとき、即座に判断したんだろう。あれは採れる、と。深追いするなという忠告より、自分の目で見た事実を信じた。

俺はカイルのそういうところを知っていた。前に一度、似たようなことがあった。春先の採取で、カイルが危険区域の境界を越えようとした。そのときは俺が「戻れ」と叫んで、奴は渋々戻った。あのとき、なぜ戻ったか。俺が「帳簿に書くぞ」と言ったからだ。「お前が危険区域に入ったって、ギルドの記録に残す」と。カイルは記録を気にするやつだった。自分の行動が残ることを、どこかで意識していた。

でも今日は、俺は叫んだ。記録の話はしなかった。ただ「捨てろ」と叫んだ。それだけじゃ、奴には届かなかったのか。

ディートさんの教えが頭をよぎる。採取者ギルドの古株で、俺たち新人に「なぜ死ぬか」を教えるじいさんだ。「死ぬやつはな、判断を一秒遅らせる。その一秒が、十倍の距離になる。距離は、命の差になる」。カイルは今、その一秒を選んだ。鉱石を捨てるかどうか、一秒迷った。その一秒で、群れは距離を詰めた。

笛がもう一度鳴る。今度は近い。退避経路の見張りが、俺たちの姿を確認したんだ。俺は弾かれるように走った。ロイクの背中が前方に見える。あいつはもう合流点に近い。さすがだ。生きることに一切の迷いがない。

「カイル!」

振り向きざまに叫ぶ。カイルの姿を探す。木の影。揺れる枝。唸り。牙。

影が、重なった。

俺は目を逸らした。いや、逸らしたんじゃない。見えなくなっただけだ。木が遮った。夜が遮った。唸りが、一際高く響いて、そして――

静かになった。

「アイン、来い!」

ロイクの声が、現実を引き戻す。俺は走った。足がもつれそうになるのを、腰の手帳が叩かれる感覚で堪えた。腰帯に差した炭筆が、走るたびに跳ねる。母の形見が胸で揺れる。ぜんぶ、ぜんぶ、今は邪魔だ。でも捨てられない。捨てたら、走る意味がなくなる気がした。

合流点に着いた。見張りの男が松明を掲げている。その灯りが、俺の世界を狭く照らす。ロイクが膝に手をついて息を吐いている。俺も立ち止まり、振り返った。

森は、暗い。唸りはもう聞こえない。笛も鳴らない。カイルの姿も、ない。

「カイルは」

ロイクが顔を上げた。浅黒い肌の上を、汗が伝っている。左眉の傷が、いつもより濃く見えた。奴は何も言わなかった。ただ、首を振った。

俺は拳を握った。爪が掌に食い込む。痛みで、今が現実だと確かめたかった。胸の奥で、何かが軋む。それは怒りじゃない。悲しみでもない。もっと冷たい、計算高い感情。帳簿と地図を読むときに使う、あの頭の部分が、勝手に動き始めている。

カイルは、なぜ死んだ。

鉱石を捨てなかったから。一秒迷ったから。でも、なぜ捨てなかった。なぜ迷った。もっと根本の、もっと手前の理由があるはずだ。なぜあいつは、あそこに立っていたのか。

「帰るぞ」

ロイクが俺の肩を叩いた。その手は、さっきまでとは違って、少しだけ震えていた。俺は頷いて、歩き出した。砦の灯りが遠くに見える。遺物景気に沸く表通り。採取者が星屑付きの鉱石を売り、酒場で金を溶かす場所。俺たちはそこへ帰る。カイルを置いて。

胸のポケットに、手帳がある。俺は無意識にそれに触れた。カイルの死因を、書くべきだと思った。書かないと、忘れる。忘れたら、また誰かが同じ死に方をする。そんな予感が、足元から冷えてくる。

あの夜、俺は宿の部屋で手帳を開いた。蝋燭の灯りが揺れる。ページの端に、カイルの名前を書いた。その下に、日付。場所。状況。そして、一行だけ残した。

『なぜ死んだか』。

答えは書けなかった。まだ、わからない。でも、書かないでおくわけにはいかない。この一行が、いつか何かの形になる。そう思って、俺は炭筆を置いた。

それから二年が経った。

十七歳になった俺は、採取ギルドの帳簿係をしながら、外回りの仕事も続けていた。文字が読める。算術ができる。地図が読める。それが、どれだけの武器になるか、十五歳の頃は知らなかった。でもあの夜から、俺は知った。死因を減らすには、まず記録が必要だ。そして、記録を活かすには、仕組みが要る。

俺はギルドの会議室で、ユーグ支部長に紙を差し出した。

「非遺物三点セットの提案です」

ユーグは太い眉をひそめた。「非遺物? 遺物じゃないのか」

「遺物は高価です。誰でも使えるものじゃない。でもこれなら、新人でも、資金のない採取者でも、全員が使えます」

紙には三つの項目が書いてあった。一つ、退避の笛の標準化と旗の合図の統一。一つ、事前踏査の義務化と退避経路二本の指定。一つ、三人一組の編成と見張りの固定化。

ユーグはしばらく黙って紙を見ていた。そして、隣に立つティルダさんに目をやった。

ティルダさんは栗色の髪を几帳面にまとめ、背筋を伸ばして立っていた。革袋から万年筆を取り出し、何も言わずに数字を書き始める。右前腕の白い傷跡が、袖からわずかに覗いた。あの傷は、誰にも触れさせない。ギルドの誰もが知っている、けれど誰も聞かないことだ。

「生還率が、年々下がっています」ティルダさんの声は静かだった。「特に外回りの新人。記録を見れば明らかです」

ユーグは唸った。「金にならん」

「死人はもっと金になりません」

ティルダさんは顔を上げなかった。万年筆だけが、帳簿の上を滑る。彼女はギルド全員の経歴も、稼働も、生還率も、借金まで把握している。編成の公平と安全を守る門番。数字には一切の妥協を許さない人だ。表面上はユーグに従っているが、その数字が金儲けのために歪められることを、誰よりも冷ややかに見ている。

「試験運用だ」ユーグはようやく言った。「外郭の森で一ヶ月。結果が出なければ、俺の金だ。結果が出れば……」

「ギルドの規則になります」俺は言った。

ユーグは笑った。金の話になると笑う男だ。俺はその笑いが好きじゃない。でも、今は利用する。改革は、金の匂いがしないと動かない。

審判の日、ギルドの会議室にディートさんが呼ばれた。古株の採取者で、白髪交じりの髭を蓄え、片目を義眼にしている。義眼は、若い頃に群れ夜行獣に襲われたときのものだ。「なぜ死ぬか」を教えるじいさんは、俺の提案をじっと聞いていた。

「笛と旗。これは昔からある」ディートさんは言った。「だが、統一されていなかった。隊ごとに違う合図を使っていた。それが混乱を招く」

「だから標準化します」

「事前踏査。これも昔からある。だが、やるかやらないかは隊長の裁量だった。新人には教えられていなかった」

「だから義務にします」

「三人一組。これも、あるにはあった。だが、金になる仕事は少人数の方が効率がいいからな。守られていなかった」

ディートさんは俺を見た。義眼の奥に、何かが光った。

「お前、カイルのことを書いたな」

俺は頷いた。手帳のことを言っている。

「あの夜、なぜあいつが死んだか。お前は考えた。書いた。忘れなかった」

「忘れたら、また同じことが起きます」

ディートさんはしばらく黙って、それからゆっくりと頷いた。

「いいだろう。俺の経験を、使え」

オットーが最初に協力を申し出た。長身痩身、兎のような薄色の瞳で、瞬きが少ない。常に観察している男だ。一期先輩で、生存に長けた採取者。手帳に地形と退避経路を記録する癖がある。侵食濃度で空気が甘く濁る『風の匂い』や、異形の移動痕を早期に察知して、簡易地図にするのが得意だった。戦闘力は低い。でも、死なないことにかけては、ギルドで右に出る者がいない。

「これ、見てください」オットーは俺の部屋に来て、自分の手帳を開いた。びっしりと書き込まれた地図。退避経路。危険区域。季節ごとの変化。「星堕ちの地は、年々広がっています。外縁が、何メートルかずつ。甘い匂いがする場所と、変色した苔が目印です。地図は、毎年更新しないと意味がない」

「だから、事前踏査が要るんだ」

「ええ。あと、夜行獣の行動範囲も変わっています。退避経路が、季節によって無効になる場所がある」

オットーは小声で、慎重に話す。臆病さゆえに生き残ってきた男だ。故郷が異形化の波に呑まれた過去がある。「死なない方法を知り尽くす」ことが、彼の生きがいになっている。セドリックさんという古株と相性が良く、危険予測の補助をしている。

ロイクは、酒場で俺を見つけた。

「お前、改革とか言ってるらしいな」

俺は頷いた。ロイクは杯を傾けて、それから笑った。相変わらず声が大きい。

「実利はあるのか」

「生還率が上がれば、稼働できる人数が増える。長い目で見れば、ギルドの収入も増える」

「長い目ね」ロイクは杯を置いた。「俺は、弟妹の学費を貯めたいんだ。目標額が貯まったら、この砦を出る。それまでの命が惜しい。だから、お前の改革に乗る」

「乗るって」

「実利があるからな。それに――」ロイクは目を細めた。「カイルの分も、生きて帰りたいんだよ。あいつ、いつも笑ってたろ。えくぼが出る顔で。俺は、ああいうのが消えるのが、一番嫌いなんだ」

俺は何も言えなかった。ロイクは酒を注いで、窓の外を見た。砦の灯りが、夜の闇に滲んでいる。

「墓標代わりの木の下で、たまに酒を注いでる」ロイクは小さく言った。「カイルが好きだった、甘いやつ。生きてるやつは、そういうのでもいい。でも、死んだやつは、もう飲めないだろ。だから、せめて」

俺は頷いた。そして、手帳に書いた。ロイクの言葉を、そのまま。

改革は、ゆっくりと動き始めた。笛の標準化。旗の合図の統一。事前踏査の義務化。退避経路二本の指定。三人一組の編成。オットーが地図を書き、ディートさんが経験を語り、ロイクが実利を説き、ティルダさんが数字で裏付ける。俺は、それを記録した。

三ヶ月後、試験運用の結果が出た。外郭採取の森での新人の生還率が、前年の同時期より二割上がった。ユーグ支部長は渋々ながら、規則を認めた。政庁から表彰状が来た。凱旋の期待が高まった。でも、俺は知っていた。これは、まだ始まりに過ぎない。星堕ちの地は広がっている。夜行獣は増えている。死因は、まだまだある。

秋が来て、冬が過ぎ、春になった。二年目の春。ギルドの事務所に、一通の手紙が届いた。カイルの家族からだった。遺品の返送についての問い合わせ。ティルダさんが対応した。

俺はその日、事務所にいた。ティルダさんが革袋から帳簿を出して、カイルの名前のページを開いた。墨で書かれた名前。その下に、死亡日。場所。遺品のリスト。

「遺品は、荷袋一つ分」ティルダさんは言った。「鉱石。採取着。手袋。それから――」

彼女の指が、止まった。万年筆を持つ手が、わずかに震えている。死者の名簿に墨を入れるときだけ、指先が震える。俺はそれを見たことがある。何度も。

「手帳です」ティルダさんは言った。「カイルさんの、私物の」

俺は息を呑んだ。カイルも、手帳を持っていたのか。

「中身は」俺は聞いた。「見ましたか」

ティルダさんは首を振った。「遺品は、家族に返すのが規則です。中身は、見ない」

でも、彼女の目は、帳簿の上で何かを探していた。数字に残る人の名。利益のために消されることへの憎しみ。彼女の祖父は、パラサイト型の投与で発狂し、異形と化した。その過去が、彼女を動かしている。

「返送は、私がやります」ティルダさんは言った。「遺品の記録。返送の確認。全部、私の仕事です」

「カイルの手帳に、何が書いてあるか」

「わかりません」ティルダさんは顔を上げた。栗色の髪が、窓からの光を受けて、わずかに揺れた。「でも、あなたが書いたものと、同じようなものかもしれませんね」

俺は何も言えなかった。カイルは、記録するやつだった。自分の足で見たものを、胸の内に刻むやつだった。でも、もしかしたら、手帳にも書いていたのかもしれない。あの夜、なぜ死んだか。それを、俺と同じように考えていたのかもしれない。あるいは、違うことを。

ロイクは、カイルの墓標代わりの木の下で、酒を注いだ。今回は、いつもの甘い酒じゃなくて、カイルが最後に飲みたがっていた、苦いやつを持ってきた。

「苦いの、飲めなかったんだよ、あいつ」ロイクは笑った。声が、少しだけ湿っている。「でも、いつか飲めるようになりたいって言ってた。大人になったら、苦いのがわかるようになるって。だから、今日はこれにした」

オットーは、カイルの死の記録を、自分の手帳に書き足した。日付。場所。状況。そして、一言。「深追いせず、退避の笛に従うこと」。それが、教訓として、後の新人に伝えられるように。

ティルダさんは、名簿に墨を入れた。カイルの名前の横に、小さな丸印。遺品返送済み、の印。彼女の指先は、やはり震えていた。

俺は、自分の手帳を開いた。二年間、書き続けてきた。死因。対策。改善。数字。名前。そのページの一番最後に、こう書いた。

『カイルの死因:鉱石への執着。一秒の迷い。記録の不在。対策:非遺物三点セット。笛の標準化。事前踏査。三人編成』

そして、その下に、新しい行を追加した。

『なぜ死ぬか。なぜ生きるか。その両方を、記録する』

ページを閉じる。胸のポケットに、ペンダントの冷たい感触がある。母の形見。父の失踪。その意味は、まだわからない。でも、走り続ける理由は、わかっている。

死因を、減らす。そのために、書く。記録する。忘れない。それが、俺の選んだ戦い方だ。

窓の外で、退避の笛が鳴った。短く。長く。三度目で、足音が湧く。今日も、誰かが森に入っている。誰かが、走っている。誰かが、帰ってくる。誰かが、帰ってこないかもしれない。

俺は立ち上がった。手帳を腰帯に差し、炭筆を握る。事務所を出て、ギルドの扉を開ける。表通りの喧騒。遺物景気の熱気。その裏で、静かに積み重なる死者の名前。ティルダさんの帳簿。オットーの地図。ロイクの酒。ディートさんの義眼。みんな、俺の改革を支えている。

まだ、足りない。でも、始まっている。

唸りが聞こえる。笛が鳴る。俺は走り出す。獲物を捨てて。生きて帰るために。そして、次の死因を、記録するために。