春の匂いが、まだ薄かった。
森の縁に立つと、甘く濁った風が頬を撫でる。だが、その中に、ほんの少しだけ、土の匂いが混じっている。雪解けの水が地面を濡らし、枯れ草の下から新しい芽が顔を出し始める季節。俺は腰帯の手帳を、無意識に指先で押さえた。四冊目も、もう半分が埋まっている。
遺品返送の日は、いつも晴れる。誰が決めたわけでもない。ただ、そういうものだと、みんなが思っている。
ギルドの裏手にある小さな庭に、俺たちは集まった。石畳の脇に、名も知らぬ白い花が咲いている。誰かが植えたわけじゃない。風が運んだ種が、勝手に根を下ろしたのだ。それを、ティルダが踏まないように、そっと避けて歩いていた。
彼女は、革袋から帳簿を出した。濃い藍色の表紙。角が擦り切れて、中の紙が少しだけ覗いている。栗色の髪を几帳面に後ろへまとめ、背筋をぴんと伸ばした姿勢は、いつもと同じだ。ただ、右前腕の袖が、ほんの少しだけずれている。白い傷跡が、ちらりと見えた。彼女は気づくと、さっと袖を引き直した。
「カイル・レント。十五歳。採取歴、一年。死因、群れ夜行獣による襲撃。遺品、採取着一式、手帳一冊、ナイフ一本、巾着袋一つ」
ティルダの声は、平坦だった。感情を削ぎ落とした、事務的な響き。だが、彼女がカイルの名を書くとき、万年筆の先が、紙の上で、ほんの一瞬、止まった。俺は、それを見逃さなかった。止まった、というより、震えたのだ。指先が。すぐに、また書き進めた。けれど、その一瞬は、確かにあった。
「遺品は、遺族に返送済み。受領印、確認済み」
帳簿を閉じる。乾いた音が、庭に小さく響いた。
ロイクが、前に出た。小柄な体を、黒い上着に包んでいる。左眉の古い傷が、薄い春の光の中で、白く浮かんでいた。彼は、陶器の小瓶を一つ、石畳の上に置いた。酒だ。蓋を開けると、つんとした酒精の匂いが、甘い風に混じる。
「カイル。お前、酒、飲めなかったよな」
ロイクは、そう言って、自分の分の小瓶も開けた。二本。一本は、カイルの分。彼は、片方を石畳に、そっと注いだ。透明な液体が、白い花の根元に染み込んでいく。
「俺が、代わりに飲むから。お前は、嗅いでろ」
彼は、もう片方を、一息に煽った。喉が鳴る。飲み干すと、袖で口元を拭った。笑っているように見えた。けれど、笑っていなかった。目が、少しだけ、赤い。酒のせいかもしれない。風のせいかもしれない。俺には、わからなかった。
オットーが、静かに進み出た。長身痩躯。兎のような薄色の瞳が、瞬き少なく、石畳の一点を見つめている。彼は、手帳から、一枚の紙を破り取った。地図だった。あの夜の、カイルが死んだ場所の。三層膨張の境界線。群れ夜行獣の移動痕。退避経路になり得た、三本の回り道。丁寧な炭筆の線が、紙の上に、網目のように広がっている。
「あの夜、ここを通れば、生きられた」
オットーの声は、小さかった。囁くように。だが、その一言は、庭の空気を、びしりと凍らせた。
「でも、俺は、教えなかった。お前も、知らなかった。だから、死んだ」
彼は、紙を、酒の染みた石畳の上に、そっと置いた。
「次は、教える。だから、許してくれとは、言わない」
彼は、一歩、下がった。瞬きを、一つだけした。それきり、何も言わなかった。
ティルダが、再び帳簿を開いた。今度は、名簿の頁だ。カイルの名の横に、墨を入れる。黒い線が、すうっと、紙の上を走る。彼女の指先が、また、震えた。万年筆を握る手に、力がこもる。線が、少しだけ、歪んだ。彼女は、唇を噛んだ。そして、帳簿を、閉じた。
俺は、三人の後ろに立っていた。何も持っていない。手帳は、腰帯にある。ペンダントは、服の下だ。俺は、ただ、見ていた。ロイクの酒。オットーの記録。ティルダの名簿。それぞれが、それぞれのやり方で、カイルの死を、受け止めようとしている。俺は、何をするでもなく、その光景を、目に焼き付けていた。
風が、帳簿の頁をめくった。閉じたはずの名簿が、ばらりと開く。カイルの名が、一瞬、白い光の中に浮かんだ。それから、また、紙の上に戻った。黒い墨の線が、春の日差しを、吸い込んでいる。
「アイン」
ティルダが、俺を呼んだ。振り向くと、彼女は、帳簿を抱えたまま、じっと、俺を見ていた。
「あんたの番よ。何か、言いなさい」
「……ああ」
俺は、一歩、前に出た。石畳の感触が、硬い。足の裏から、冷たさが伝わってくる。俺は、腰帯の手帳を、抜いた。四冊目。表紙の革が、擦り切れて、中の紙が、少しだけ、覗いている。
「カイル」
名前を、口に出した。風が、止んだ。ロイクも、オットーも、ティルダも、俺を見ている。
「お前の死因は、群れ夜行獣だ。でも、本当の死因は、俺たちが、何も知らなかったことだ。どこに群れがいるか。どこを通れば安全か。どうすれば、助かるか。……誰も、教えてくれなかった。誰も、記録してなかった。だから、お前は、死んだ」
手帳を開く。新しい頁。まだ、何も書いていない。白い紙の上に、昨日の頁から、インクの点が一つ、滲んでいる。小さな、黒い染み。それが、今日の頁にも、影のように、落ちている。
「俺は、書く。お前の死を。なぜ、死んだか。どうすれば、生きられたか。それを、全部、書く。次の誰かが、死なないように」
俺は、炭筆を取った。頁の一番上に、一本、線を引く。
「カイル・レント。十五歳。春。群れ夜行獣。退避経路、未整備。教本、未作成。――死因、記録不足」
書き終えると、顔を上げた。ロイクが、小さく頷いた。オットーは、目を、ほんの少しだけ、細めた。ティルダは、帳簿の表紙を、指先で、そっと撫でていた。
「次は、死なせない」
俺は、言った。風が、また、吹き始める。甘く濁った匂いが、遠くから、ほんの少しだけ、混じってくる。だが、それだけじゃない。土の匂い。芽の匂い。春の匂い。それらが、混ざり合って、庭を、満たしている。
俺は、手帳を閉じた。革の表紙が、腹に当たって、冷たい。服の下で、ペンダントの鎖が、首筋に、細く触れた。
ロイクが、空の小瓶を、袋に戻した。オットーは、石畳の紙を、拾い上げて、手帳に挟んだ。ティルダは、帳簿を、革袋に、しまった。誰も、涙を、見せなかった。けれど、誰も、笑っても、いなかった。
「行くか」
ロイクが、言った。声が、いつもより、少しだけ、低かった。
「ああ」
俺は、頷いた。四人は、庭を出た。石畳の白い花が、風に揺れている。俺は、振り返らなかった。振り返れば、カイルが、まだ、そこにいるような気がしたから。
ギルドの建物に戻ると、ディートが、執務室の扉の前に、立っていた。左膝を、少し、庇うように、体重を、右足に、かけている。皺の深い顔が、朝の光の中で、いつもより、老けて見えた。
「終わったか」
「はい」
「カイルの遺品は、全部、返したか」
「返しました」
「なら、いい」
彼は、執務室の扉を、開けた。中は、紙と革と、古いインクの匂いが、満ちている。窓から、午後の光が、斜めに、差し込んでいた。机の上に、一冊の、分厚い帳簿が、置かれている。革の表紙。金の文字。――教本、と、書いてある。
「これが、最初の頁だ」
ディートが、帳簿を、俺の前に、押し出した。開かれた頁に、彼の、節くれだった文字が、並んでいる。乱雑だが、力強い。採取者の指だ。薬品と土と、血とで、黒ずんだ指が、書いた文字。
『採取者は、死ぬために森に入るのではない』
その一行が、最初の頁に、あった。
「三十年分の、経験だ。まだ、途中だがな」
ディートは、椅子に、腰を下ろした。左膝が、小さく、鳴った。
「アイン。お前が、書け。俺の経験を、お前の言葉で。ティルダの数字を、オットーの地図を、ロイクの道を。全部、紙に残せ。それが、次の誰かの、退避経路になる」
「はい」
「そして、お前が、先頭で、笛を吹け。俺は、後ろで、紙を見てる。お前の笛が、誰かを、生き返らせる。そのために、吹け」
俺は、頷いた。窓の外で、風が、笛のように、鳴っている。甘く濁った匂いが、ほんの少し、混じっている。だが、それだけじゃない。春の匂い。芽の匂い。新しい、何かの匂い。
俺は、教本の、最初の頁を、指で、そっと、押さえた。まだ、何も書いていない。だが、インクの点が一つ、昨日の頁から、滲んでいる。小さな、黒い染み。それが、今日の頁にも、影のように、落ちていた。
俺は、ペンダントを、指先で、確かめた。冷たい金属。母の形見。それから、父が、どこかで、これを。首を、振る。
今日も、森は、牙を研いでいる。だが、俺は、書く。なぜ死ぬか。どうすれば、生きられるか。その一行が、いつか、誰かの、退避経路になるまで。
遠くで、笛の音が、一つ、鳴った。朝の合図。俺は、顔を上げた。ディートが、隣で、歩幅を、小さく刻んでいる。俺は、その背中を、追いかけた。
春の光が、床に、白い四角を、落としている。埃の粒が、その中で、ゆっくりと舞っている。俺は、教本を、脇に抱えた。重い。だが、悪くない重さだ。
四冊目の手帳に、まだ書いていない、無数の行。それを、今日も、一行ずつ、埋めていく。カイルの名から、始まる頁。その続きを、俺は、これから、書いていく。
――死因を、一つずつ、削るために。