第1章 死因を減らせ

紙と笛

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ギルドの執務室には、紙と革と、古いインクの匂いが満ちていた。窓から差し込む午後の光が、帳簿の束に斜めに落ちている。埃の粒が、その中でゆっくりと回っていた。

俺は十七歳になっていた。カイルが死んで、二年が経つ。

「非遺物三点セット、だと」

ディートが眉を寄せた。彼はこの森で三十年近くを生きている古参の採取者だ。深い皺の一本一本が、そのまま経験の年輪に見える。分厚い掌は節くれだって、爪は黒ずんでいた。薬品と土と、血の色だ。

その隣で、栗色の髪を几帳面に後ろへまとめた若い女性が、静かに帳簿を抱えて立っていた。ティルダ。ギルドの帳簿・編成・名簿係の書記官だ。背筋は定規のように伸び、口数は少ない。だが、数字と手続きの前では、一切の妥協を許さない目をしていた。

俺は頷いて、腰帯の手帳を開いた。

「退避経路の事前踏査と、二本指定。見張りの笛と旗の合図の統一。それから三層膨張の前線マップの更新。この三つだ。遺物を一切使わないから、検査も探知も、匂いも関係ない」

紙の頁を、指で押さえる。四冊目の手帳は、もう半分が字で埋まっていた。

「誰がやる」

ディートが低く聞いた。

「オットー先輩が地形と退避経路の記録を担当する。ロイクが回り道の選定と、小物採取の目利き。ティルダさんには、帳簿で生還率を数字に残してもらう。ディートさんには、経験則の教本化を」

「教本、ねえ」

ディートは、卓に肘をついた。木の脚が、小さくきしむ。

「お前、それを、誰に読ませるつもりだ」

「新入りに。それから、俺たち全員に。読んで、測って、次の経路を選ぶ。死因が分かれば、次は避けられる」

「分かるかね」

彼の声は、静かだった。

「この森で三十年、死因は数えきれないほど見てきた。群れに食われた。侵食に呑まれた。崖から落ちた。仲間に刺された。毒を食った。凍えた。渇いた。――だがな、それらは、みんな結果だ。なぜ、そこにいたか。なぜ、あの瞬間、動けなかったか。そこには、届かない」

「届かせます」

俺は言った。声が、少しだけ硬くなった。

「書けば、残る。残せば、次が測れる。測れば、避けられる。一人の死が、一人分の死で終わらないようにする。それだけのことです」

ディートは、しばらく黙って俺を見ていた。それから、ゆっくりと立ち上がった。左膝が、小さく鳴る。

「ついてこい」

外は、秋の終わりの光だった。冷たい風が、砦の石壁を撫でていく。森の方角から、甘く濁った匂いが、微かに混じって流れてくる。あの匂いを、俺は知っている。侵食の濃い場所の、空気の味だ。

ディートは、砦の外壁に沿って歩いた。作業場の裏手、物置小屋の並ぶあたりで足を止める。錆びた扉を押し開けると、中は薄暗く、埃と、古い革の匂いがした。壁際に、木箱が積み上げられている。

「開けてみろ」

一番上の箱を、俺は開けた。中には、笛が入っていた。十数本。木製、角製、金属製。どれも手入れが行き届いている。隣の箱には、小旗。紅、白、藍。大きさは三種類。その下の箱には、厚い紙の束。折り畳まれた地図だった。

「使えそうなものは、持っていけ」

ディートは、扉の框に手をかけて言った。

「これは、うちの倉庫のもんだ。貸し出しは、ティルダの帳簿に載る。消える。壊れる。無くす。全部、記録される。返せなかったら、お前の給金から引かれる」

「……いいんですか」

「お前の案を、試すんだろう」

彼は、振り返らずに言った。

「俺は、二十年、書かなかった。書けなかった。だから、四人、死なせた。お前は、書くと言った。なら、書け。そのために、俺ができることをする。それだけだ」

俺は、笛を一本、手に取った。木の笛だ。表面は使い込まれて艶が出ている。吹き口を、指でそっと撫でる。冷たい。

「笛は、届かなくちゃ、意味がない」

ディートの声が、背中越しに聞こえた。

「風向きを読む。谷の形を読む。相手の耳の位置を読む。笛一本で、三人の退避が変わる。旗一本で、隊の向きが変わる。紙一枚で、誰か一人が、死なずに済む」

彼は、振り返った。皺の奥の目が、薄闇の中で、じっと俺を捉えている。嘲笑でも、試しでもない。それは、もっと静かなものだった。たぶん、祈りに近い。

「紙と笛。それが、お前の言う『三点セット』か」

「はい」

「武器は、要らんのか」

「要らない、とは言いません。でも、武器は、最後の最後に使うものだ。最後の最後に届く前に、笛と旗と紙で、逃げる。それで助かるなら、その方がいい」

ディートは、鼻で笑った。けれど、その笑い方は、妙に柔らかかった。

「甘いな。だが、嫌いじゃない」

次の日の朝、ギルドの広間で、俺は全員の前に立った。

卓の前に、ディート、ティルダ、オットー、ロイク。それに、赤斧の連中が何人か、壁際に立って様子を見ていた。ガンツの姿はない。だが、その代わりに、彼の部下の一人が、腕を組んで、俺をじっと見ている。

オットーは、一番奥の椅子に座っていた。長身痩身、兎のような薄い色の瞳。瞬きが、異様に少ない。手元には、彼の手帳が開かれている。地形と退避経路の、細かい字がびっしりと並んでいた。

ロイクは、俺の横に立った。小柄で浅黒い肌。左眉に、古い傷がある。

「で、本当にやるのか」

ロイクが、小声で聞いてきた。

「やる」

「無給で?」

「無給で」

「馬鹿だな、お前」

彼は、そう言って、笑った。声が大きい。広間に、よく通る。

「でも、俺、馬鹿は嫌いじゃない。特に、儲かる馬鹿はな。これで生還率が上がって、採取量が増えたら、俺の給金も上がる。――そうだろ、ティルダさん」

「帳簿上、その通りです」

ティルダが、帳簿を開いて言った。彼女の声は、平坦だった。けれど、右前腕の袖が、ほんの少しだけ、ずれている。白い傷跡が、一瞬、見えた。彼女は、すぐに袖を戻した。

「では、正式に提案します」

俺は、手帳を開いた。皆の前に、三つの項目を読み上げる。

「第一、退避経路の事前踏査と二本指定。第二、見張りの笛と旗による合図の統一。第三、三層膨張の前線マップの定期更新。――この三点を、採取隊の標準手順として、試行します」

「反対は」

ディートが、低く聞いた。

「ない」

オットーが、初めて口を開いた。声は、小さい。だが、はっきりとしていた。

「俺は、賛成だ。前線マップの更新は、俺がやる。三層膨張の境目は、日に三回は動く。今の手順じゃ、紙が古くなる。古い紙は、殺す」

彼は、それだけ言って、また黙った。手帳の頁を、指でなぞっている。

「ロイク」

「賛成。回り道の選定、任せてくれ。俺、逃げ足だけは速いからな」

ロイクは、胸を叩いた。

「ティルダさん」

「……反対はしません」

彼女は、帳簿から顔を上げた。栗色の髪の下で、目が、まっすぐに俺を見ている。

「ただし、条件があります。月ごとに、効果を数字で出してください。死者数、生還率、採取量。数字が動かなければ、私はこの試行を止めます。感情では、人は動きません。数字が動けば、他の連中も動きます」

「分かった」

「それから」

彼女は、帳簿を閉じた。閉じる音が、妙に、硬かった。

「死者の名簿は、私が預かります。――もう、墨を、薄めませんから」

最後の一言は、ほとんど、独り言のように小さかった。だが、俺には、はっきりと届いた。

壁際で、赤斧の男が一人、鼻で笑った。

「紙と笛で、異形が止まるかよ」

「止まらない」

俺は、即座に返した。

「止まらないから、逃げるんだ。止めるための武器は、最後に使う。でも、逃げるための笛と旗と紙は、最初から使う。最初に使えば、最後の武器を使わずに済むことが、増える」

男は、何か言いかけて、やめた。ディートの視線が、彼の方を、一瞬、横切ったからだ。

試行は、その日から始まった。

オットーは、毎朝、森の縁まで出て、風の匂いを嗅いだ。彼は、侵食濃度の変化を、嗅ぎ分けることができた。空気が甘く濁れば、その方向を、地図に落とす。三層膨張の境界は、日に動く。彼は、それを三回、更新した。

ロイクは、採取経路の周囲を、ぐるりと回る道を探した。木の実や薬草の生える場所を覚え、危険な異形の巣を避ける。彼の選ぶ回り道は、遠い。だが、死なない。

ティルダは、帳簿を、毎日更新した。死者の数、生還率、採取量。数字が、彼女の頁に、積み重なっていく。彼女は、死者の名を書くときだけ、万年筆の先を、少しだけ、止めた。それから、また書き進んだ。

俺は、笛と旗の合図を、全隊に教えた。短い笛、長い笛、二度吹き、三度吹き。旗は、紅が停止、白が前進、藍が退避。隊員たちは、最初、面倒くさがった。だが、試行の二か月目、初めて、笛の合図で一人の新入りが助かった。群れ夜行獣の接近を、見張りが笛で知らせた。隊は、藍の旗で退避した。誰も死ななかった。

その日、ロイクが、俺の肩を叩いた。

「お前の紙と笛、一つ、仕事したな」

「まだ一つだ」

「一つは、一つだ」

彼は、笑った。けれど、その夜、彼は、墓標代わりの木の下で、酒を一本、注いでいた。カイルの分だ。俺は、遠くから、それを見ていた。

冬が来て、春が来て、俺は十七になった。

二年目の春、ギルドの広間で、全員が集まった。試行の結果を、ティルダが読み上げる。

「試行前、一年の死者、二十三人。試行後、一年の死者、十六人。生還率は、六割から、七割二分へ上昇。採取量は、微増」

広間が、静かになった。

「七人、減りました」

ティルダは、帳簿を閉じた。その手が、ほんの少しだけ、震えている。けれど、声は、平坦だった。

「死因の内訳は、群れ八、侵食三、転倒二、仲間割れ一、その他二。退避経路の使用が、最も多かったのは、笛と旗の合図による停止と退避でした」

「やったな」

ロイクが、俺の背中を、思いきり叩いた。痛い。だが、悪くない痛みだ。

オットーは、静かに頷いた。彼の手帳には、この一年の、全ての経路が、記されている。彼は、それを、教本の原本として、ディートに渡した。

ディートは、それを受け取って、しばらく、頁をめくっていた。皺の深い顔が、薄暗い光の中に、浮かんでいる。

「まだ、甘い」

彼は、言った。

「でも、十六人は、生きてる。二十三人が、十六人になった。それだけのことが、起きた」

彼は、顔を上げた。目が、じっと、俺を見ている。

「アイン。次は、どうする」

俺は、手帳を開いた。新しい頁。まだ、何も書いていない。だが、昨日の頁から、インクの点が一つ、滲んでいる。小さな、黒い染み。それが、今日の頁にも、影のように、落ちていた。

「次は、死因を、さらに減らします。群れを、八から、五に。侵食を、三から、二に。転倒を、二から、一に。――一つずつ、削る」

「そのために、何が要る」

「経験則の教本です。ディートさん、教本の続きを、書いてください。三十年分の経験を、紙に残してください。それを、全員が読めば、もっと、減らせる」

ディートは、黙った。長い沈黙だった。窓の外で、風が、笛のように、鳴っている。甘く濁った匂いが、ほんの少し、混じっている。

「……書くよ」

彼は、ようやく、口を開いた。声は、低かった。

「カイルって名前を、最初の頁に書いた。それから、俺の部下三人の名前も。書いても、死ぬけどな。書かねえよりは、ましだ」

彼は、立ち上がった。左膝が、また、小さく鳴った。

「アイン。お前、笛を、吹けるか」

「少しだけ」

「なら、吹け。隊の先頭で。俺は、後ろで、紙を見てる。お前の笛が、誰かの退避経路になる。そのために、吹け」

俺は、頷いた。腰帯の手帳が、静かに、揺れている。四冊目の頁に、まだ書いていない、無数の行。それを、今日も、一行ずつ、埋めていく。

広間の扉が、開いた。朝の光が、床に、白い四角を落とす。外に出ると、空気が、冷たかった。森の方角から、甘く濁った匂いが、風に混じって、流れてくる。

俺は、ペンダントを、指先で確かめた。冷たい金属。母の形見。それから、父が、どこかで、これを。

首を振る。

今日も、森は、牙を研いでいる。だが、俺は、書く。なぜ死ぬか。どうすれば、生きられるか。その一行が、いつか、誰かの、退避経路になるまで。

遠くで、笛の音が、一つ、鳴った。朝の合図。俺は、顔を上げた。ディートが、隣で、歩幅を、小さく刻んでいる。俺は、その背中を、追いかけた。