第1章 死因を減らせ

なぜ死ぬか

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夜が、まだ残っていた。

寮の窓は東を向いている。その四分の一だけが、白みがかった藍色に染まりはじめていた。寝台の上で、俺は膝を抱えていた。眠れなかったわけじゃない。眠って、夢を見て、起きた。それだけのことだ。

隣の寝台では、ロイクがまだ寝ている。酒の匂いが、ふとんに染みついている。こいつの寝息は、いつもと変わらない。だが、その寝息が、カイルの死んだ夜から、少しだけ浅くなったことを、俺は知っている。手帳の端っこに、酒の量と一緒に書いてある。書くたび、自分の指先が冷たくなる。

手帳を開く。四冊目。革の表紙は、もう角が擦り切れていた。指でなぞると、毛羽立った繊維が、引っかかる。頁をめくる。炭筆の文字が、薄闇の中で、かすかに光を弾いた。

最初の頁。日付の横に、こう書いてある。

――カイル・ドルフ。十五歳。死因、群れの前衛への突出。退避経路未確認。笛の合図、到達せず。

それだけだ。それだけのことが、どれだけの意味を持つか。当時は、わからなかった。ただ、書かねばならないと思った。書かないと、あの夜が、なかったことになる気がした。

ペンだこの指先が、頁の端をなぞる。ざらざらした紙の感触が、指紋に引っかかる。これが、俺のやり方だ。誰かに笑われても、構わない。ガンツの言う通り、阿呆かもしれない。だが、阿呆が一人減れば、それだけ、帳簿の死者の欄が、一行、短くなる。

「……起きてたのか」

低い声がした。振り向くと、ドアのところに、ディートが立っていた。白髪交じりの髭、左膝を少し庇う立ち方。革の上着は、襟元が擦り切れて、中のシャツが覗いている。手には、湯気の立つ陶器の杯。薬草茶の匂いが、部屋の澱んだ空気に、細い線を引いた。

「眠れなくて」

「だろうな」

ディートは、無遠慮に俺の寝台の端に腰を下ろした。軋む音が、ロイクの寝息に重なる。彼は杯を俺に差し出した。

「飲め。腹に溜まる」

受け取ると、陶器の熱が、掌に沁みた。口をつける。苦い。だが、舌の奥で、ほのかに甘い。薬草と、蜂蜜と、何か、わからないもの。ディートは、こういうものを、自分で調合する。三十年、この森で生きてきた男の、ささやかな知恵だ。

「ガンツと、やり合ったそうだな」

俺は杯を両手で包んだまま、頷いた。

「酒場で。見てたんですか」

「エッダが、来た」

ディートは、膝をさすりながら言った。掌で、古い傷の上を、ゆっくりと円を描くように。

「お前の話を、少しな。赤斧の連中が、検問で小突かれたと。笛と旗で、えらく丁寧に誘導されて、面食らったと。そういう話だ」

「……笑い話ですか」

「いいや」

ディートは首を振った。髭の先が、胸元で揺れる。彼はしばらく、窓の外を見ていた。藍色が、少しずつ、灰色に変わっていく。夜明けが近い。

「エッダは、笑ってなかった。あの女が笑わないときは、だいたい、何か引っかかってる。現場の奴は、理屈より先に、肌でわかるんだ。お前の笛と旗が、邪魔か、助かるか」

俺は、杯の中の薬草の葉を見ていた。沈んで、揺れて、また浮く。エッダは、俺の横を通るとき、一瞬、足を止めた。何か言おうとして、やめた。あの顔を、俺は覚えている。憎しみでも、嘲笑でもなかった。ただ、探るような目だった。測るような目。

「ディートさん」

「なんだ」

「なぜ、人は死ぬんでしょう」

ディートは、膝をさする手を止めた。彼は、俺の手帳を見た。開かれたままの頁。カイルの名。それから、俺の顔を見た。皺の奥の目が、薄闇の中で、じっと光っている。

「……それを、お前は、四年、考えてきたんだな」

「はい」

「答えは、出たか」

「出ません。出るわけがない。死因は、いくつもある。群れ。侵食。転倒。仲間割れ。毒。寒さ。渇き。……数えれば、きりがない。だが、そのどれも、『なぜ』に辿り着けない」

ディートは、深く息を吸った。長い息だった。まるで、三十年分の空気を、一気に肺に溜めるみたいに。

「お前は、書くことで、それを、減らそうとしてる」

「はい」

「書けば、次が測れる。測れば、減らせる。……だがな、アイン」

彼は、手を伸ばして、俺の手帳の頁に、指を置いた。大きくて、節くれだった指。採取者の指だ。爪は、いびつに割れている。薬品と土と、血とで、黒ずんでいる。

「記録は、刃物だ。書く奴の手を、必ず切る。俺は、それを、三十年、見てきた」

「切られても、構いません」

「強がりを言うな」

ディートの声が、少しだけ、低くなった。怒っているわけじゃない。心配している、という響きだ。不器用な、老人の。

「お前は、カイルの死を、書いた。それは、えらいことだ。誰もやりたがらない。俺だって、避けてきた。書けば、思い出すからな。思い出せば、腹が立つ。自分に、腹が立つ。なぜ、もっと早く、気づかなかったのかと」

彼は、指を引いた。俺の手帳の頁に、彼の指の跡が、脂で、うっすらと残った。その跡が、カイルの名の上に、重なっている。

「俺はな、アイン。二十年前、この森で、四人の若いのを死なせた。全部、俺の判断ミスだ。帰れると思った。帰れなかった。あのとき、俺は、記録を、つけていなかった。つけていれば、と思った。だが、つける勇気が、なかった」

俺は、杯を置いた。陶器の底が、木の床に、乾いた音を立てる。

「ディートさんは、三十年、生きてきた。それだけで、答えの一部じゃないですか」

「答えじゃない。ただの、結果だ」

彼は、立ち上がった。左膝が、小さく鳴った。彼は、窓のところまで歩いて、外を見た。東の空が、いよいよ、赤みを帯びてきている。森の輪郭が、黒い切り絵のように、浮かび上がる。甘く濁った風が、遠くから、ほんの少し、窓の隙間を舐めていく。

「今日、オットーが、前線マップの更新をする」

ディートが、背を向けたまま言った。

「ロイクは、回り道の選定。ティルダは、帳簿の照合。俺は、教本の、最初の頁を書く」

「最初の頁は、なんですか」

彼は、振り向いた。髭の奥で、口元が、ほんの少しだけ、動いた。笑った、のかもしれない。薄闇で、よくわからなかった。

「『採取者は、死ぬために森に入るのではない』――そう、書く」

俺は、立ち上がった。手帳を、腰帯に差し直す。革の表紙が、腹に当たって、冷たい。服の下で、ペンダントの鎖が、首筋に、細く触れた。

「次は、死なせない」

呟くと、ディートは、小さく頷いた。

「ああ。そのために、なぜ死ぬかを、書け」

夜明けの光が、窓から、床に斜めに落ちた。埃の粒が、その中で、ゆっくりと舞っている。俺は、手帳の新しい頁を、指で、そっと押さえた。まだ、何も書いていない。だが、インクの点が一つ、昨日の頁から、滲んでいる。小さな、黒い染み。それが、今日の頁にも、影のように、落ちていた。

ロイクが、寝返りを打った。寝息が、少しだけ、深くなった。酒の匂いが、朝の光の中で、薄れていく。俺は、陶器の杯を、ディートに返した。彼は、それを受け取って、薬草の葉を、窓の外に、投げた。葉が、風に乗って、森の方角へ、舞っていく。

「行くか」

ディートが、言った。

「はい」

俺たちは、部屋を出た。廊下は、まだ薄暗い。だが、窓ごとに、朝の光が、四角く落ちていた。足音が、石床に、響く。俺の手帳が、腰帯で、静かに揺れている。四冊目の頁に、まだ書いていない、無数の行。それを、今日、また、一行ずつ、埋めていく。

外に出ると、空気が、冷たかった。森の方角から、甘く濁った匂いが、風に混じって、流れてくる。俺は、ペンダントを、指先で確かめた。冷たい金属。母の形見。それから、父が、どこかで、これを。

首を振る。

今日も、森は、牙を研いでいる。だが、俺は、書く。なぜ死ぬか。どうすれば、生きられるか。その一行が、いつか、誰かの、退避経路になるまで。

遠くで、笛の音が、一つ、鳴った。朝の合図。俺は、顔を上げた。ディートが、隣で、歩幅を、小さく刻んでいる。俺は、その背中を、追いかけた。