酒場の扉を押すと、昼下がりの光が斜めに差し込んでいた。昨夜の酒と煙草の残り香が、まだ床板に染みついている。踏むたびに、軋む音が足元から上がった。
カウンターの奥で、店主が布巾を回している。客はまばらだ。窓際の席で賽を振る男が二人、奥の卓で腕を組んで寝ている爺が一人。誰も彼も、昼の光を避けるように、薄暗い場所へと沈んでいた。
俺はカウンターへ向かおうとして、足を止めた。
ジャラ、ジャラ。
金属の瓶がぶつかる音。耳障りな、あの音だ。
「よお、筆まめの坊主」
振り向かずとも、わかる。ガンツだ。
酒場の奥、一番大きな卓を陣取って、赤斧の連中が座っていた。ガンツは背もたれに両腕を回し、革鎧の上から無数の星薬の空き瓶を巻きつけている。四十歳。がっしりした肩が椅子を軋ませ、刈り上げた頭には白いものが混じり始めていた。眉間の皺は彫り込んだように深く、折れた鼻の横に、古い裂傷の跡が走っている。肌の色と革の傷だけで、どれだけ森を走ってきたかを語るような男だ。
その隣で、エッダが八重歯を覗かせていた。小柄な体を揺らし、提げた袋の中のナイフと小瓶が、動くたびに音を立てる。面倒見のいい副官だと聞いている。ガンツの荒い物言いを、笑いで包む役回りらしい。
「噂は聞いてるぜ」
ガンツが杯を置いた。革の手袋が卓を叩き、鈍い音がする。
「笛と旗と地図で、死なせません、だってな。酒場の笑い話にはちょうどいい」
「笑い話で済めば、誰も死なない」
俺はカウンターへ背を向けて言った。声は、思ったより低く出た。
ガンツの眉間が、さらに深くなる。彼はゆっくりと腕を下ろし、卓の上で指を組んだ。瓶がまた鳴った。エッダが横で、小さく息を吐く。止めるでもなく、ただ、見ている。
「死んだか? ああ、死んだな。カイルだっけか。あれは運がなかった。森に入れば死はつきものだ。笛を吹いても、旗を振っても、死ぬときは死ぬ。俺たちはそうやって生きてきた。お前の笛と旗が、あの坊主の首を繋いだか? 繋いでねえだろうが」
言葉が、胸の奥に刺さる。痛い、と思った。痛いのは、図星だからだ。
「カイルは、掟通りに走った。笛が鳴って、獲物を捨てて、退避経路を走った。それで死んだ。掟を守って死んだんだ。なら、守らなかったらどうなる。守るだけじゃ足りないなら、何を足せばいい。それを考えてる」
「考える、ねえ」
ガンツは、ため息のように笑った。瓶が鳴る。彼は片手で、腕に巻いた星薬の瓶を一本、抜き取った。琥珀色の液体が、窓の光を受けて鈍く輝く。
「お前、星屑を使ったことはあるか」
「ない」
「だろうな。筆まめの坊主が、薬瓶なんざ持ち歩くわけがねえ。いいか、森で生き残るってのはな、これだ」
彼は瓶を卓に置いた。コトン、と乾いた音がして、琥珀色が揺れる。
「金を出して、星屑を買う。星薬を飲む。足が速くなる。腕が強くなる。梃子でも動かねえ体が、異形の顎を引き剥がせるようになる。あるいは、星付きの剣を買う。切れ味が三倍になる。あるいは、星埋めの目玉を入れる。暗闇でも見えるようになる」
指が、卓の上を滑る。瓶が三本、並んだ。
「星屑を借りるか、死ぬか。森じゃ、それが日常だ。お前の笛と旗は、そのどっちも選ばせねえ。金も出さず、体も張らず、ただ記録を取って、はい退避、はい整列。そんなもんで、森がどうにかなると思ってんのか」
「星屑は、体を壊す」
俺は言った。この前、診療所で見た。星薬の常用者が、指先を震わせながら、薬草を煎じていた。目の奥が、澱んでいた。あれを、俺は知っている。母が、最後にそうなった。だから、俺は遺物を持たない。持てない。
「副作用を恐れるか」
ガンツが、鼻で笑った。その笑い方が、妙にゆっくりだった。嘲りというより、確かめるような笑い方。
「臆病者が。副作用を恐れて、森で死ぬか。副作用を抱えて、森で生きるか。どっちがマシか、俺たちはここで十五年生きて、ようやく選べるようになった。お前はまだ、選ぶ場所にすら立ってねえ」
「臆病で結構だ。臆病だから、記録を取る。臆病だから、地図を引く。臆病だから、経路を二本にする。臆病者が三人死んだら、次の臆病者は死なない。それだけのことだ」
「それだけのこと、ねえ」
ガンツは、卓の上の瓶を三本、まとめて掴んだ。ジャラ、と音が鳴る。彼はそれを、腕に巻きつけ直す。ゆっくりと、丁寧に、まるで武器を研ぐように。
「俺はな、お前さん。二十五でこの稼業に入った。それまでは、斥候崩れの真似事だ。人の後ろを走って、危ねえ場所を探して、逃げ足だけは速かった。で、六年前。撤退に失敗して、部下を三人、一度に失った。俺が経路を読み違えた。それだけだ。星屑のせいでも、掟のせいでもねえ。俺の読みが、甘かった」
最後の瓶を、彼は腕に巻きつけた。革の紐をぎゅっと締める。瓶が、きしんだ。
「あん時から、俺は退避を軽んじるようになった。臨機応変に逃げる。経路なんざ、走りながら決めりゃいい。そうやって、生き延びてきた。生き延びて、また部下を連れて、森に入る。それの、何が悪い」
「悪くない。けど、三人死んだのは」
「ああ、死んだ」
ガンツは、俺を見た。四十歳の、血の色と革の傷だけを纏った男の目が、昼下がりの光の中で、じっと俺を捉えている。嘲笑でも、怒りでもなかった。奥の方に、何か、違うものが沈んでいる。それはたぶん、後悔だ。俺には、そう見えた。
「お前さん、記録を取るんだってな」
「ああ」
「死者の名も」
「書く」
ガンツは、しばらく黙った。卓の上に、彼の指が残した濡れ跡が、乾いていく。エッダが、提げた袋を机の端に置き、静かに腰を浮かせた。もう、この話は終わりだ、という合図のように。
「書けよ」
ガンツが、ようやく口を開いた。声は、低かった。
「書いて、残せ。カイルって名前と、俺の部下三人の名前と、あと、これから死ぬ奴らの名前をな。書いても死ぬけど、書かねえよりは、ましだ」
彼は、立ち上がった。椅子が床を引き摺り、不快な音を立てる。赤斧の連中が、一斉に腰を上げた。エッダが俺の横を通り抜けるとき、一瞬、足を止めた。
「あんたの笛、悪くない」
彼女は、小さな声で言った。八重歯は、もう見せていなかった。
「ただ、あんたの笛が鳴る前に、死ぬ奴がいる。そっちを、どうにかしないと」
袋を肩に掛け直し、彼女はガンツの後を追った。酒場の扉が開き、昼の光が、一瞬、床に白い四角を落とす。そして扉が閉まり、また、薄暗さが戻ってきた。
俺は、カウンターの椅子に腰を下ろした。店主が、黙って水を出した。冷たい陶器が、掌に沁みる。カイルの名を、俺は手帳に書きつけた。墨が、紙に染み込んでいく。乾くのを待ちながら、俺はもう一度、あの瓶の音を思い出していた。
ジャラ、ジャラ。金を出して星屑を借りるか、死ぬか。
ガンツの言葉が、まだ耳の奥に残っている。だが、その言葉の端に、俺は別のものを聞いた。書けよ、という声。残せ、という声。呪いのように低く、祈りのように重い声だった。